アメリカの女性詩人エミリ・ディキンスンの生涯を「セックス・アンド・ザ・シティ」のシンシア・ニクソン主演で映画化。
エミリ・ディキンスンは日本で(本国アメリカでも)知られていない19世紀後半の女性詩人。
土曜のブログに書いたジム・ジャーミシュの「パターソン」の中でも
詩人でバスの運転手の主人公が尊敬し口ずさむ詩の一篇にディキンスンの作品が登場している。
ニューイングランドの小さな町の屋敷から一歩も出ることなく、生前にわずか10編の詩を発表したのみで、無名のまま生涯を終えた女性詩人、エミリ・ディキンスンは、その死後に妹の手により隠匿していた約1800編の詩が発見される。
他に無数の手紙。エミリは書くことは好きなようだったが、自分の写真は女学生時代の一枚だけしか残っていない。真摯な瞳でまっすぐ前を睨むようにレンズを見つめている。
妹の手で発見された繊細な感性と深い思索の中で編み出された詩の数々は、
後世の芸術家たちに大きな影響を与えていると言われる。
1886年、北米マサチューセッツ州の小さな町アマストで、妹のラヴィニア(ヴィニー)・ディキンスンは整理ダンスの引出から、清書されて46束にまとめられた1800篇近くに及ぶ詩稿を発見する。
それらは腎臓病で亡くなった姉エミリのものだった。
「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」は、アメリカを代表する女性詩人エミリ・ディキンスン(1830-1886)のベールに包まれた半生を描いた作品である。
映画の冒頭は家族を離れマウント・ホリヨ-ク女子専門学校に通うエミリ(エマ・ベル)は
校長から信仰について問いただされる。
福音主義に確信を抱いていないエミリは正直にそのことを皆の前で宣言する。
(正直なのは良いが嫌な女だと言う印象を受ける)
富豪で弁護士の父親、エドワード(キース・キャラダイン、ピシット旧式のスーツで決めるとよく似合う)はエミリを中退させアマストの自宅へ連れ帰る。
父親は校長にへつらわず反抗的態度は良しとしないが、娘の意志を尊重し自宅へ連れ帰るのは立派だ。
家には兄オースティン(ダンカン・ダフ)
妹、ヴィニー(ジェニファー・イーリー)と共に過ごすことになる。
何事も本音で語るヴィニ-にエミリも影響を受ける。
教会で牧師と「祈り」について牧師と異なる祈りへの考えを述べ、反抗的な態度をとる。
父親も堪りかねて注意するが宗教を強要されることを嫌うエミリは「私の魂は私のものよ」と譲らない。
エピソードが進む中に突然、歴史が入って来る。
「南北戦争」の勃発だ。
結婚して父親と一緒に弁護士をしているオースティンは当然志願する。
ここでの会話が興味深い。
父エドワードは「公債500ドルを買っているから徴兵は免れられる。
ディキンスン家はお前が戦死したら途絶える」。
友人や仲間が皆、南軍と戦うのに自分だけはそんなことは出来ないと延々と議論が激しくなる。
天皇継承で女帝は認めない日本と同じ考えだ。
泣く泣くエドワードは父親に従うが、
60万人以上の戦死者を出した戦争は終わり、
奴隷制度は廃止される。
兄エドワードは美しい妻スーザン(キャサリン・ベイ)との間に男の子を設け
エミリはこの甥を可愛がる。
エミリ自身も聖職者、チャールズ・ワズワース牧師(エリック・ローレン)に
心を奪われるが牧師は妻帯者。
やがてサンフランシスコに赴任し激しい喪失感に襲われる。
その癖兄エドワードの浮気現場を見つけると烈火のように怒りまくるエミリの本性は分からない。
父親の紹介で地元ボストンのローカル紙に詩を投稿し載せてもらった歓び。
だが編集長は作者の名を明記しない。
「女が詩なんて書くものでは無い」と。
句読点を勝手に入れたこともエミリの怒りの種。
原作に手を入れるのは、作者だけの権利で貴方にそんな権限は無い。
「読者に読みやすくしてあげている親切心だ」と反論。
母親エミリー(ジョアンナ・ベイコン)が腎臓の病で苦しみながら亡くなり一家が黒い喪服で母親の喪失を悼んでいる時に「
真っ白」なドレスでエミリは現れこれが私の喪服だと、
同じ腎臓病で死ぬまで白いドレスで通し、
家から一歩も外へ出ず詩作に没頭する。
清教徒主義の影響を受けるアメリカ東部の上流階級で生まれ育ったが様々な試練を経て、やがて後に伝説となる、白いドレス姿で屋敷から出ることなく、孤独な生活を送り、数多くの詩を書き残した。
彼女の詩は、自然や信仰、愛や死をテーマに、繊細な感性と深い思索のなかで記されたものだ。その独特のスタイルは型に嵌らず、詩作への強い信念が感じられる。
たった10編の詩しか公表されなかったエミリは生前に評価されることは、ほとんどなかったが、いまや文芸にとどまらず、多くの芸術家に影響を与えている。
例えば、サイモン&ガーファンクルは彼女にまつわる歌「エミリー・エミリー」「夢の中の世界」をアルバムに収めている。
ウディ・アレンはエミリのファンで、著書の短編集のタイトル「羽根むしられて」(Without feathers)は、エミリの詩の一節、「希望は心の中にとどまる羽根のあるもの」からの引用だ。
人間は羽根のない生き物で、地上でバタバタしているとのだと。
この映画は、日本人の殆どが知らないエミリ・ディキンスンという偉大な詩人に捧げられた
オマージュである。
撮影はマサチューセッツ州アマストのエミリが実際に暮らした屋敷とスタジオで行われ、約20篇の彼女の詩を織り込んでいる。
彼女のかたくななまでに思いを秘めた女子学生時代から、
母親の病死で白いドレスを纏い、一歩も邸宅を離れることなく、
詩作を心の拠りどころにした晩年から死までを静かに淡々と描いている。
(2時間を超すとは、やや長すぎる感があるが)
「人生」と「死」、そして「永遠」を真正面から直視する孤独な魂の描写はストイックな観客ならその琴線にふれるだろう。
監督は、レイチェル・ワイズとトム・ヒドルストンが主演した「遠い声、静かな暮し」(1988)などのイギリスのテレンス・デイヴィス。70歳を過ぎてこの作品を入れて3本しか撮っていないし、日本に紹介されたのもこの映画くらいだから馴染みの無い映画作家だ。
主演のシンシア・ニクソンは人気テレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」のミランダ役でエミー賞助演女優賞を受賞している。19世紀のストイックなエミリと自由奔放に世間を駆け抜けるミランダとの間には天地の差があるが、さすがはベテラン女優、シンシア・ニクソン。真反対の女性像を演じ分けている。
紛れもなくシンシアにとっては生涯一度の大役。彼女の代表作になるだろう。
7月29日より岩波ホールにて公開される。
エミリ・ディキンスンは日本で(本国アメリカでも)知られていない19世紀後半の女性詩人。
土曜のブログに書いたジム・ジャーミシュの「パターソン」の中でも
詩人でバスの運転手の主人公が尊敬し口ずさむ詩の一篇にディキンスンの作品が登場している。
ニューイングランドの小さな町の屋敷から一歩も出ることなく、生前にわずか10編の詩を発表したのみで、無名のまま生涯を終えた女性詩人、エミリ・ディキンスンは、その死後に妹の手により隠匿していた約1800編の詩が発見される。
他に無数の手紙。エミリは書くことは好きなようだったが、自分の写真は女学生時代の一枚だけしか残っていない。真摯な瞳でまっすぐ前を睨むようにレンズを見つめている。
妹の手で発見された繊細な感性と深い思索の中で編み出された詩の数々は、
後世の芸術家たちに大きな影響を与えていると言われる。
1886年、北米マサチューセッツ州の小さな町アマストで、妹のラヴィニア(ヴィニー)・ディキンスンは整理ダンスの引出から、清書されて46束にまとめられた1800篇近くに及ぶ詩稿を発見する。
それらは腎臓病で亡くなった姉エミリのものだった。
「静かなる情熱 エミリ・ディキンスン」は、アメリカを代表する女性詩人エミリ・ディキンスン(1830-1886)のベールに包まれた半生を描いた作品である。
映画の冒頭は家族を離れマウント・ホリヨ-ク女子専門学校に通うエミリ(エマ・ベル)は
校長から信仰について問いただされる。
福音主義に確信を抱いていないエミリは正直にそのことを皆の前で宣言する。
(正直なのは良いが嫌な女だと言う印象を受ける)
富豪で弁護士の父親、エドワード(キース・キャラダイン、ピシット旧式のスーツで決めるとよく似合う)はエミリを中退させアマストの自宅へ連れ帰る。
父親は校長にへつらわず反抗的態度は良しとしないが、娘の意志を尊重し自宅へ連れ帰るのは立派だ。
家には兄オースティン(ダンカン・ダフ)
妹、ヴィニー(ジェニファー・イーリー)と共に過ごすことになる。
何事も本音で語るヴィニ-にエミリも影響を受ける。
教会で牧師と「祈り」について牧師と異なる祈りへの考えを述べ、反抗的な態度をとる。
父親も堪りかねて注意するが宗教を強要されることを嫌うエミリは「私の魂は私のものよ」と譲らない。
エピソードが進む中に突然、歴史が入って来る。
「南北戦争」の勃発だ。
結婚して父親と一緒に弁護士をしているオースティンは当然志願する。
ここでの会話が興味深い。
父エドワードは「公債500ドルを買っているから徴兵は免れられる。
ディキンスン家はお前が戦死したら途絶える」。
友人や仲間が皆、南軍と戦うのに自分だけはそんなことは出来ないと延々と議論が激しくなる。
天皇継承で女帝は認めない日本と同じ考えだ。
泣く泣くエドワードは父親に従うが、
60万人以上の戦死者を出した戦争は終わり、
奴隷制度は廃止される。
兄エドワードは美しい妻スーザン(キャサリン・ベイ)との間に男の子を設け
エミリはこの甥を可愛がる。
エミリ自身も聖職者、チャールズ・ワズワース牧師(エリック・ローレン)に
心を奪われるが牧師は妻帯者。
やがてサンフランシスコに赴任し激しい喪失感に襲われる。
その癖兄エドワードの浮気現場を見つけると烈火のように怒りまくるエミリの本性は分からない。
父親の紹介で地元ボストンのローカル紙に詩を投稿し載せてもらった歓び。
だが編集長は作者の名を明記しない。
「女が詩なんて書くものでは無い」と。
句読点を勝手に入れたこともエミリの怒りの種。
原作に手を入れるのは、作者だけの権利で貴方にそんな権限は無い。
「読者に読みやすくしてあげている親切心だ」と反論。
母親エミリー(ジョアンナ・ベイコン)が腎臓の病で苦しみながら亡くなり一家が黒い喪服で母親の喪失を悼んでいる時に「
真っ白」なドレスでエミリは現れこれが私の喪服だと、
同じ腎臓病で死ぬまで白いドレスで通し、
家から一歩も外へ出ず詩作に没頭する。
清教徒主義の影響を受けるアメリカ東部の上流階級で生まれ育ったが様々な試練を経て、やがて後に伝説となる、白いドレス姿で屋敷から出ることなく、孤独な生活を送り、数多くの詩を書き残した。
彼女の詩は、自然や信仰、愛や死をテーマに、繊細な感性と深い思索のなかで記されたものだ。その独特のスタイルは型に嵌らず、詩作への強い信念が感じられる。
たった10編の詩しか公表されなかったエミリは生前に評価されることは、ほとんどなかったが、いまや文芸にとどまらず、多くの芸術家に影響を与えている。
例えば、サイモン&ガーファンクルは彼女にまつわる歌「エミリー・エミリー」「夢の中の世界」をアルバムに収めている。
ウディ・アレンはエミリのファンで、著書の短編集のタイトル「羽根むしられて」(Without feathers)は、エミリの詩の一節、「希望は心の中にとどまる羽根のあるもの」からの引用だ。
人間は羽根のない生き物で、地上でバタバタしているとのだと。
この映画は、日本人の殆どが知らないエミリ・ディキンスンという偉大な詩人に捧げられた
オマージュである。
撮影はマサチューセッツ州アマストのエミリが実際に暮らした屋敷とスタジオで行われ、約20篇の彼女の詩を織り込んでいる。
彼女のかたくななまでに思いを秘めた女子学生時代から、
母親の病死で白いドレスを纏い、一歩も邸宅を離れることなく、
詩作を心の拠りどころにした晩年から死までを静かに淡々と描いている。
(2時間を超すとは、やや長すぎる感があるが)
「人生」と「死」、そして「永遠」を真正面から直視する孤独な魂の描写はストイックな観客ならその琴線にふれるだろう。
監督は、レイチェル・ワイズとトム・ヒドルストンが主演した「遠い声、静かな暮し」(1988)などのイギリスのテレンス・デイヴィス。70歳を過ぎてこの作品を入れて3本しか撮っていないし、日本に紹介されたのもこの映画くらいだから馴染みの無い映画作家だ。
主演のシンシア・ニクソンは人気テレビドラマ「セックス・アンド・ザ・シティ」のミランダ役でエミー賞助演女優賞を受賞している。19世紀のストイックなエミリと自由奔放に世間を駆け抜けるミランダとの間には天地の差があるが、さすがはベテラン女優、シンシア・ニクソン。真反対の女性像を演じ分けている。
紛れもなくシンシアにとっては生涯一度の大役。彼女の代表作になるだろう。
7月29日より岩波ホールにて公開される。